ベルデセルバ戦記でブログ

プレイステーションソフト「ベルデセルバ戦記~翼の勲章~」 にこだわるブログです。(略称【ベル戦ブログ】)

佐藤秀峰さんの意見への岩崎夏海氏の反論、に対する批判など

佐藤秀峰さんの本やマンガへの考え方について

・簡単な流れ
 佐藤:本は所有者の好きに扱って良いし、便利だから自炊は可
 岩崎:本は所有者の好きに出来ないし、便利は自炊の理由にはならない

  • ※ここでいう「自炊」とは紙媒体である本の情報を電子化すること。またそのために本を分解してスキャナーで読み込むこと。

岩崎氏の意見の問題点として私が挙げるのは以下の4つだ
1)倫理の話に「所有権」という法律用語を使って読者を混乱させた
2)「人間にとってはむしろ「借り物」」と、「使い方を誤っている人がいれば、」「誰でもそれを咎め立てすることができます。」の間に論理的つながりが無い
3)「あ」を「い」と読んではいけない事が自炊否定の根拠になっていない
4)情報媒体は歴史上激変していることを無視している


 ○○べきである、と倫理的な主張するには万民に納得のいく説明が必要であるが2)で示したように説得力が全く無い。むしろ道具には一通りの使い道しかない場合の方が少なく、科学・文化の発展は新しい用途の発見に負うところが大きいのだから推奨すべきとまでは言わないが禁止してはいけないだろう。
 3)については実は、「あ」を「い」と読まない事は自炊した人も守っている。さもなければ自炊者本人が楽しめない。むしろ守る前提だからこそ自炊は行えるのだ。だから岩崎氏が主張すべきだった事は、文字・文章が伝える意味情報を守る事ではなく、自炊したら失われる情報つまり本の手触り・見開きでの文字列のレイアウト・ページをめくる動作・そこで変化する紙面の動きなどを守るべき、であった。このような基本的な前提が間違ってしまっていては上記リンク先の多くのコメントのように謗られるのは免れ得ない。


 さて4)だが、もし作家が意図しなかった媒体に著作を載せることが倫理的に罪ならば、人類は莫大な過去の遺産を利用できなくなる。
 木や石や金属に刻みつけられた文字・線画・彫刻を紙、フィルム、液晶画面に映し出すことが出来なくなる。羊皮紙に書かれた小説もパピルスに書かれた絵も竹簡に書かれた詩もパピルス・羊皮紙・竹簡無しには見られない。浮世絵も和紙に木版で印刷するしか手が無くなり、伝統的に砂の上に指で書いて伝えられた文字は砂がないと伝承不可能になる。文字のない文化圏の歌は書きとってはいけないし、厳密に適用すれば酸性紙時代の著作は全て酸性紙で作るべきである(一世紀たつとボロボロになって消滅してしまうが)。同様に古い新聞記事や新聞漫画も新聞紙に印刷すべきで、現代の紙に印刷してあまつさえ本にするなど言語道断となる。翻訳は更に困難となるだろう。特に著作者が死んでいる場合、外国語に移し替えることはその意図に反する可能性があるからやってはいけない。


 岩崎氏はドラッカーを原書で読んだのだろうか?それならば文句はないが、岩崎氏だってその人生において、現代の中性紙という非常に便利な媒体に翻訳・印刷された先人の遺産の恩恵をふんだんに受けているはずだ。中性紙への移し替えはいいが、自炊は「誤っている」というのでは筋が通らない。