ベルデセルバ戦記でブログ

プレイステーションソフト「ベルデセルバ戦記~翼の勲章~」 にこだわるブログです。(略称【ベル戦ブログ】)

あきらめる



 ちょっと小耳に挟んだのだが、

「 あきらめる(諦める)」は、「あきらかにきわめる」から由来する

 のだという。
 聞いた瞬間におかしいと思った。
 なぜなら「あきら」はいいとして、「める」に究めるなどという意味はないだろうから。大方の人が古文で苦しめられたであろう「助動詞」にも「める(めり)」はあるがこれは推定・婉曲の意味しかない。
 この「める」は意思の助動詞「む」+完了助動詞「る」で

  • 高める
  • 清める
  • 早める

 などのように使う語だろう。だから正しくは

「 あきらめる」は、「あきらかにする」から由来する

のだろう。古語として正確には「あきらむ」だな。


 ググって見ると「〜きわめる」型の解釈を引用している人がかなり多い。もちろん「〜にする」型の解釈をしている人もいるが少数派。どういうことか。


 その前になぜ「あきらかにする」→「諦める」なのか?考えよう。というか下のページを見てもらえると早い。まず「あきらめる」の使用状態から確かめる。

諦める

             最低山極悪寺 珍宝院釈法伝
 「諦」という字は、元来、つまびらかにする、あきらかにする、という意味です。思いを絶つという意味はありません。仏教の方では、「てい」ではなく「たい」と読み、さとり、真実などの意味で使います。例えば、四諦(したい)というのは、四つの真実という意味です。おそらく、あきらかにされたもの=真実という連想で、中国人は、この字を使ったのでしょう。
 次に、日本語を見てみると、明治十八年の国語辞典である「辞林」には、「あきらむ」という語が、ふたつ収録されています。
 あきらむ 自動詞 あきらかに究める 「明」の字を当てる
 あきらむ 他動詞 思いを絶つ    漢字表記なし
【中略】
 以上から、明治の初めに存在した「あきらむ」という二つの言葉が、一方は、「明らかになる」方へ変化し、他方が「あきらめる」方へ変化したと言えそうです。そして、その間、両者が混同されて、「明らかにする」という意味の「諦」の字が、「思いを捨てる」という意味で、使われるようになったようです。

 どうも「究める」説はこの「辞林」由来らしい。仏教思想にひきづられて付けてしまったのだろうが、やはり「究める」は蛇足だと思う。次にその仏教的意味を考える。

諦めることは一種の悟りなんですか(に対する回答の一つ)


tengu_tou2000さん


まあ、さとりの一種です。
下記は大辞泉大辞林からの「諦念」の項目の抜粋です。


ていねん【諦念】
1 道理をさとる心。真理を諦観する心。
2 あきらめの気持ち。


ていねん【諦念】
道理を悟って迷わない心。また、あきらめの気持ち。


ついでに「諦観」もみてみましょう。


ていかん 【諦観】
[1] 全体を見通して、事の本質を見きわめること。
[2] 悟りあきらめること。超然とした態度をとること。


ていかん【諦観】
1 本質をはっきりと見きわめること。諦視。「世の推移を―する」
2 あきらめ、悟って超然とすること。「―の境地」


もともと仏教は、千変万化する事物の法則をみきわめる、すなわち少し離れたところから超然と観察するような態度でのぞむことで、
事物の一つの見方に固執するような態度を捨てる思想があります。
事物を固定された不変なものではなく、「空」ととらえ、千変万化する固定した実体のないものだととらえるのはその一つです。
そういう態度を「達観」とか「諦観」とかいうわけですが、こういう物事に固執しない超然とした態度は、
私たちが日常感じる「あきらめ」によく似ていますよね。

 これが一番のヒントだと思われる。もともと「四諦」のように、「真実」「あきらかにする」という意味だけだった「諦」の字だったが、日本で使っているうちに「物事に固執しない超然とした態度」→「あきらめ」となり、「諦」の字にも「あきらめ」の意味が乗り、更に「あきらめる」という動詞にも「あきらめ」の意味が乗ってしまったのだろう。


 で、多くの人が「〜究める」説を採っている理由だが、

Amazon「大河の一滴」カスタマーレビュー


 正直、大まかな所は、「五木寛之ブランド」で感動した人が多数ではないでしょうか。至る所で「確信は無いのですが…」「少し脚色しているかもしれませんが…」と、聞きかじりの情報提供。
【中略】
 私が特に感動したのは、「あきらめる」の語源を五木氏が引用してくださった事です。「あきらめる」は、「あきらかにきわめる」から由来しているとの事。たまには、!「あきらかに極めること」も必要かと考えれば、何だか前向きに考えられます。
【後略】

 これが原因だろう。相当のベストセラーなのでたくさんの人がこの説に触れているはずだ。「辞林」を情報源としているなら五木氏に罪は無いが、浄土真宗門徒たる五木氏ならばもうちょっと正確に書かないとイカンだろうと思うがどうか?というか本を書くときに情報源をがっちり固めるのは基本だろうに。


 ちなみに私この本読んでません。